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ニューキャッスル (ペンシルベニア州) : ウィキペディア日本語版
ニューキャッスル (ペンシルベニア州)

ニューキャッスル()は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州ローレンス郡の都市であり、同郡の郡庁所在地である。ピッツバーグ市の北西50マイル (80 km)、ペンシルベニア州とオハイオ州の州境近くにあり、オハイオ州ヤングスタウンからは東に18マイル (29 km) に位置している。2010年国勢調査での人口は23,128人だった。過去の人口最大は1950年調査の48,834人だった。ニューキャッスル小都市圏の主要都市であり、ピッツバーグ・ニューキャッスル広域都市圏に属しており、広域都市圏の人口は全米第18位である。肥沃な農業地帯の商業中心にある。
== 歴史 ==

1798年、土木技師のジョン・カーライル・ステュワートがペンシルベニア州西部に旅して、アメリカ独立戦争退役兵のために取って置かれた「寄付用地」の再測量をおこなった。最初の測量ではシェナンゴ川とネシャノック・クリークの合流点、当時はアレゲニー郡に属した土地約50エーカー (200,000 m2) が落とされていたことを、このとき発見した。ステュワートはこの土地を自分の土地であると主張し、1798年4月にニューキャッスルの町となるところの区画を整理した。1849年4月5日、ペンシルベニア州知事がローレンス郡を創設する法案を承認し、アメリカ海軍大佐ジェイムズ・ローレンスに因んで郡名をつけた。ニューキャッスルは1869年に市になり、初代市長はトマス・B・モーガンが務めた。同時の人口は約6,000人に増えていた。
1849年、ペンシルベニア州ミフリン郡からオールドオーダー・アーミッシュの家族集団がニューキャッスルの北、ニューウィルミントンに入植した。その後にオハイオ州ホームズ郡から移住してきた者により、ペンシルベニア州では最大級のアーミッシュの町ができた。現在ニューキャッスルの北にある郡区には約2,000人のアーミッシュが住み、働いている。
19世紀初期に運河の体系が建設され、それが市内を通ったので、ニューキャッスルの事業が繁盛し始めた。輸送施設が使え、原材料の市場に近かったので、多くの製造工場が市内に造られた。運河体系は後に鉄道に補完され、さらに置き換えられていった。鉄道は速度が速く、大量に物資を運べ、年間を通じて利用できた。
1870年代、ニューキャッスルはピッツバーグ・アンド・エリー湖鉄道の主要中心地となった。人口は1890年の11,600人から1900年の28,339人、1920年の38,280人と増えていった。工場や近くにある石灰岩石切場で働くために、特にイタリアからの移民が入ってきていた〔Watkins, John, ''The Big Stunts of Great Detectives: The Scrapbook'', Vol. 4, No. 6, New York: Frank A. Munsey (December 1907), p. 1098.〕。イタリア人労働者は、労働者の給与を脅して強奪するブラックハンド社会の餌食になる者が多かった。1907年、地域全体のブラックハンド社会本部が、ニューキャッスルの西数マイルにあるヒルズビルの村にあった〔。このころのニューキャッスルは国内でも成長速度の高い都市であり、国内最大のブリキ板製造工場が造られたことで、世界のブリキ板の首都になった。ブリキ板産業によって市の繁栄度をさらに加速させた。
1908年、都市間トロリー線であるピッツバーグ・ハーモニー・バトラー・アンド・ニューキャッスル鉄道によって、ピッツバーグ市と結ばれた。製鉄所、製紙工場、鋳物工場、青銅ブッシング工場、自動車組立工場が市経済に貢献した。さらにシェナンゴ・チャイナが商業用陶器を製造し、ドワイト・D・アイゼンハワーリンドン・ジョンソン各大統領のディナー用食器など、ホワイトハウス用磁器を制作した。他の窯業会社が浴室用設備や産業用耐火材料を製造した。
1920年代、ニューキャッスルは最大の繁栄時期を経験していた。多くの美しい建造物が建設されて市の景観が変わったのがこの時期であり、現在も大聖堂、セントメアリーズ教会、キャッスルトン・ホテルなど、この時代に建設されたものが残っている。ニューキャッスル市はその独自性も確立した。「世界のホットドッグの首都」と「世界の花火の首都」とも呼ばれている。チリ・ドッグは、20世紀初期に移ってきて、家屋と共にレストランを作ったギリシャ系移民の産物である。花火は、S・ビタル・パイロテクニック・インダストリーズとザンベリ・インターナショナルという国際的に知られた2社によってその名声を得た。
1930年代は国内の多くの都市と同様に世界恐慌の影響を受けた。この時期に連邦政府は公共事業促進局市民保全部隊を設立した。これらの機関が多くの失業者に職を提供した。これらの機関が建設した石壁は、経済の歴史的崩壊の名残として今も残っている。
戦時に産業は一時的な隆盛を見た。1950年、人口は48,834人と頂点に達したが、1990年までに28,224人にまで減少し、ラストベルトの一部になった。
1998年、ヒストリー・チャンネル・グレートレースの開催都市になった。この行事のために15,000人以上の観衆が市中心街に集まった。この年は市の設立200周年でもあり、花火大会には3万人以上の観衆が集まった。
ニューキャッスルで最初の花火製造者はレオポルド・ファゾーニであり、ファゾーニ兄弟花火会社を所有し経営した。1886年にイタリアから移民してきて、ブリキ板製造工場で働いて金を稼ぎ、事業を始めた。ペンシルベニア州では最初の花火製造認定証を発行された。ファゾーニ家と働いた人の中から、ポール・ロッジ、ジェイコブ・コンティ、コンスタンティノ・ビタル、ジョセフ・ザンベリなどが自分の事業を始めた。
近年の経済不況はあるが、市内にはパイロテクニコ・ファイアワークスの本社が残っている。パイロテクニコは世界でも権威ある花火会場のカナダモントリオールのラロンドで、2008年ゴールドジュピター賞を受賞した。コンスタンティノ・ビタルは1889年にイタリアで花火制作を始め、ニューキャッスルに移民してそこで1920年代まで事業を続けた。ビタル家の5世代がこの会社を変えてきた。1990年代、社名がポリテクニコに変えられ、花火産業における世界の指導的会社になった。ニューキャッスル市にはザンベリ・ファイアーワークス社もある。この会社も花火産業における世界の指導的会社である。2007年には、カスケードセンター近くにザンベリ・プラザをオープンした。

ローレンス郡庁舎、ノースヒル歴史地区、スコッティッシュ・ライト大聖堂がアメリカ合衆国国家歴史登録財に指定されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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